雪の上州武尊山
奥本 威(埼玉県川口市)当会 会員
二〇二二年一月九日。今年の初登りは上州武尊山だった。
二本目のリフトを降り、正面の斜面下でザックを下ろす。アイゼンを装着しヘルメットをかぶり、しばし逡巡する。
ザックの脇にあるストックを出そうか、ピッケルを使うか。膝の調子はわるくないとはいえ、けがの後であり、トレーニングも不十分な状態。仲間の足を引っ張るのは心苦しい。
途中までストックを使い、核心部分だけピッケルに持ち替えればいいのではないか。
私の姿を見てか否か、「男性班と女性班にわかれていきます」「最初からピッケル出してね」と、リーダーの鶴見さんの声がした。
鶴見さんは全員の準備の状況に目を配っている。私の不安を感じ取ったのか、それとも「しっかりしろ」との鼓舞だったのか。とにかくそれで心は定まり、ピッケルを取り出した。
男性班の先頭は渡邊さんだ。彼は、子どものころから近所の山を走り回っていたという。東京の出版業界で働いていたが、山好きが高じて地元の測量関係の会社に転職したらしい。
リフトから先はいきなりの急登で、しかも雪が深い。渡邊さんは今シーズンの雪山は四座目らしく、ひるむことなく登っていく。
ひるがえって私は今シーズン初めての雪山で、足元に不安がある。数歩でふくらはぎが張ってきた。攣らないよう慎重に足を進める。
ひとつ急登を越えたところで先頭が止まった。私も足を止め、振り返ると後続の人との間隔が開いている。「少し休める」と安堵する。後続を待ち追いついてきたところで、歩行を再開。攣りそうな感覚はない。このほんのわずかな休憩で、体が順応したようだ。
傾斜が緩くなり、少し開けたところに出た。右手に小さな雪庇が見える。なんとなく既視感があり、前方を見ると高くそびえる険しい頂が見える。剣ヶ峰だろう。
ここが前回、撤退を決めた地点に違いない。風は強いが今日はまだ晴れている。そのときは剣ヶ峰まであとほんの少しのところ、と思っていたが、今それを見ると、ここからまだ一登りある。
二一年三月十五日、沼田ICを降りて見た武尊山は、麦わら帽子のような雲をかぶっていた。
「吹雪くかな」と鶴見さんがつぶやいた。まさか、とは思ったが口には出さなかった。
川場スキー場の駐車場に着いたとき、雪は降っていないが風が冷たかった。リフト券売り場で聞いた話では、「前日、前々日と降雨。今日は風は強いが昼から晴れる」ということだった。
下は晴れていたが、二本のリフトを乗り継ぐとそこは雪だった。アイゼンをつけピッケルを持つ。
前日は雨だったのであれば凍っているはずだ、というのが鶴見さんの読みだった。ストックはザックの中に収納する。急登の斜面は凍っていたが、すぐに雪にかわった。スキー場は雨だったのかもしれないが、その上は雪だったのだろう。
やや緩い斜面に出たところですっかり前が見えなくなった。ホワイトアウトだ。強風に氷の礫が混じり、顔に当たって痛い。目出し帽を鼻の上まで上げ風に背を向け佇む。地図を確認すると剣ヶ峰まであと少しだ。せめてそこまでは行きたいと思うが五メートル先も見えない。
ふいに「ツエルトでやり過ごそう」と言われた。私はその時までツエルトが何なのかさえ知らなかった。この中にいるだけで、風雪を避けことができて、暖が取れるのだと驚き、同時に安堵した。
「登山をする者はツエルト、つまり簡易テントを必ず持っていないといけない」と鶴見さんに教えられた。
風の音がすごい。十分くらいして「あと三十分粘ってだめだったら撤退しよう」ということになった。
「剣ヶ峰を越えたあとの下りが危険なんですよね」と聞きかじりの情報を口にすると、「その先の平原で道迷いの可能性が高い」「雪山で遭難する原因のひとつには、そういう理由もあるのだ。武尊山直下の急斜面手前にも平原があり危険だ」との返答。さすが鶴見さんは歴戦の勇者、いや登山家だ。
三十分以上経った。鶴見さんから時間を聞かれ、九時四十分だと伝えた。本当はもう少し時間が過ぎていたが、結果は同じだ。
「もう少し粘りたい、行きたいという気持ちもわかるがこれが最後ではない」
「これから何度でも来る機会はある」
「撤退を決断するほうが難しい、これは勇気ある撤退だ」
「来年、また計画しよう」
彼が語るその一言一言がズシリと腹の底に響いた。
約一年経って再計画した武尊雪山行には、山岳会のメンバー十三人が手を上げた。過半数がこの一年間に入ってきた新人メンバーだ。
剣ヶ峰はナイフリッジになっていて、怖かった。強風にあおられてバランスを崩そうものなら、奈落の底へ落とされる。体を少しかがめ重心を低く保ちながら歩いた。
剣ヶ峰からの下りは「核心」だといわれているが、雪が深くアイゼンの刃がよく刺さる。谷川岳の下りの方が滑って危なかったなと思いつつも、慎重にかかとから足を下ろしていく。下りてから振り返ると、メンバーが蟻のように列をなしていて微笑ましい。
剣ヶ峰から武尊山まではアップダウンがきつかった。音を上げるメンバーもいたが、私はむしろ楽しんでいた。先週登った伊豆ヶ岳のアップダウンに比べればきつくはない。先頭を歩く渡邊さんは所々で現在地を確認している。
正午、登り始めて二時間強で武尊山に着いた。
先に到着していた仲間と拳を合わせ、山頂の真ん中へ。山頂は曇っていて風も強く寒かったが、私は幸せな気持ちに包まれていた。
達成感もあるが、それよりも何よりも、気心知れた仲間と登れたことこそ、かけがいのないものだった。
登ってくるメンバーの顔はゴーグルなどで隠されているが、かすかに見える目は笑っている。景色も見えないのに、歓声が上がる。
先ほど音を上げていた仲間に「お疲れさん」と声をかけると、他の仲間が私の膝を撫でて「この膝よくもったね」と労をねぎらってくれる。
山頂標識を囲んで集合写真を撮る。「武尊は私と奥本さんが去年計画したんだよなあ」。鶴見さんがガハハっと笑う。なにかおもしろいことを言おうとしたが、口から出てきたのはみんなへの感謝の言葉だけだった。